なかにし礼さんの戦争体験と作詞の由来

なかにし礼さんが去年2020年12月23日にお亡くなりました。

満州で生まれ、4歳まで満州でお育ちなり、戦争と敗戦で口では言い表せない辛苦を味わった方達の一人です。

広大な満州を家族ともども逃げ延びている時に母親から3歳~4歳の幼児に「逃げ伸びるは自分の力で逃げてくれ」と言い渡されてから、なかにし礼さんは幼子ながらその時から泣く事をしなくなったそうです。

父親はソ連に連れて行かれそれきっり会えなかった・・・

黛ジュンさんが歌った「恋のハレルヤ」は満州の広大な麦畑と日本にようやく帰れることになった時の空の輝きを見て幼子ながら感動をした気持ちと日本に対する複雑な気持ちを歌った歌です。

弘田三枝子さんが歌った「人形の家」も敗戦当時の日本に対する気持ちを込めた歌です。

敗戦直後の満州にいた日本人に日本政府は「帰って来るな」と言い放っされました。

それを聞いた大人達は号泣

なかにし礼さんは敗戦から1年半ぐらい逃げて逃げて彷徨い、ようやく日本に帰れることになり、

帰国の途の船の中でなかにし礼さんのお姉さまが「レイちゃん、死のうか」というような事を言われました。

なかにし礼さんはその当時4歳だったかもしれません。

「いいよ、死んでもいいよ」と言って、二人で死ぬことにしたそうです。

少女と幼子の雰囲気が変だと察した大人の方が、追い込まれた二人を助けてくれたそうです。

若い時は戦争の話しが超超超大大大嫌いでした。

非常に無関心な人間でした。

今は戦争経験者の方々、戦争でお亡くなりになった方達に敬意と感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。

いまある平和は先人たちの悲惨な体験とご苦労のお蔭です。。。

なかにし礼さんにご冥福をお祈り申し上げます。。。。