永遠のライバル「清少納言」にあって「紫式部」になかったものは何だったのか〈dot.

「春はあけぼの・・・・」と古文で少しだけ習ったが清少納言は高慢ちきで見せびらかしやみたいな人のように覚えている。 清少納言の評価が変わったのは、仕えていた定子が父親を亡くし、兄弟が不手際を起こし定子がドンドンと隅に追いやられていった時期に枕草子を書き始めたと何かで読んだか放送を見た記憶がある。               枕草子清少納言の自慢しいの書き物ではないようだ。               気の毒な定子を慰めようと一生懸命に綴った随筆のようだ。                     「源氏物語」は素晴らしい読み物だが、私自身は清少納言の方が好きだ。

 

 

 

 

 

永遠のライバル「清少納言」にあって「紫式部」になかったものは何だったのか〈dot.〉

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 彼女は清原元輔という中級官吏の娘である。清少納言の「清」の字は、すなわち、清原家の出身であることをしめしている。父の元輔は「百人一首」のなかに、  ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ……  の歌を残している歌人だが、役人としては、あまりうだつがあがらず、六十七歳になって、やっと周防守(現在の山口県のあたりの地方長官)に任じられた。彼女は元輔の晩年の子で、少女時代、父に従って任地へ下ったらしい。  それ以後の人生経路は、はっきりしないが、同じくらいな階層の中流官吏橘則光と結婚し、何人かの子供を産んだあと、宮仕えの生活にはいり、とかくするうち何となく別れてしまったようだ。  こう見てくると、彼女は根っからの中流階層だ。にもかかわらず「枕草子」の中にこの階層の人間について書くとき、その筆は決して好意的ではない。 「センスがなくて、ことばづかいを知らなくて……」  とさんざんにけなしている。まるで宮仕え以来、彼女自身が上流貴族の仲間入りしてしまったかのようだ。  中宮とか、そのまわりにいる大臣などのことは、手ばなしのほめようなのだが、たとえば、何かの官にありつこうとして走り回る連中、つまり彼女の父親たちの階層の姿は突き放した目でみつめている。  髪の白くなった老人が、つてを求めて、宮中の女房の所へやって来て、自分にはこんな才能があるなどと、くどくど言っているのを、若い女房が小ばかにして、その口まねをするが本人は気がつかない――などというのは、現代に変わらぬ就職運動を描いてなかなか痛烈だ。 「こんなふうに、まるでひとごとのように書くのは、自分が上流階級にはいったつもりでいるからだ。つまり成り上がり根性だ」  学校でそう教わりもし、私もそう思いつづけて来た。  軽薄な、成り上がり根性の、いやな女――。  が、それだけだったら、私はこのシリーズに、彼女をとりあげはしなかったろう。  しかし「枕草子」を読んでいるうちに、少しずつ考え方が変わって来た。たしかに彼女は軽薄で、いい気なところのある女性だが、それとともに、彼女以外のだれにも与えられなかった、すばらしい天賦の才の持ち主であることに気がついたのだ。  清少納言だけに与えられた天賦の才――それは感性のするどさだ。宝石のきらめきとでも言ったらいいだろうか。

 

例をあげよう。彼女は「うつくしきもの」として、 「おかっぱの髪が、顔にふりかかるのをかきあげもせず、首をかしげて物に見入る子供」  をあげている。「うつくしきもの」とは現代の「かわいい」と「美しい」をかねたような意味だが、なにげないことばで、いかに巧みに、幼子のあどけない凝視を描きつくしているか、子供をお持ちのおかあさまなら、おわかりになるだろう。そして、この幼子の凝視は、清少納言自身の凝視でもある。  こうした、さわやかな感性をあげだしたらきりがない。そして、この部分にこそ、彼女の天分はあますところなく表われている。サロンの中での手がら話だけに目を奪われているとしたら、宝石の中から、わざわざ石ころをえらびとっているようなものだ。  かといって、私は彼女の軽薄さやおめでたさまで弁護しようとは思わない。ただ言いたいのは、人間にはそうした欠点と天分とが時として同居するということだ。紫式部が何と悪口を言おうと、彼女はホンモノの才女なのである。  では紫式部清少納言と、どちらがすぐれているか? これはなかなかの難問だ。紫式部には一目一目編み物をしてゆくようなたんねんさがあるが、清少納言には、ずばりとナイフで木をえぐりとる鋭さがある。紫式部を、冷静な瞳と深い知識を備えた優等生型とするなら、清少納言は感性を武器にした天才型だ。  そう思って読んでみると、例の鋭く速いタッチの中に、ふしぎに透徹した非情さが、にじみ出ていることに気がつく。これは清少納言独特のもので、紫式部ではこうはいかなかったろう。じめじめした感傷をまつわりつかせないこの力量は、日本では珍しい感覚である。  これを、受領階級の悲しみを知っている清少納言が、わざと悲しみをおさえて突きはなして書いたのだ、という見方もあるが、少し考えすぎで、かえって彼女の本質をとらえていない読み方だ。 「顔で笑って心で泣いて……」  といったナニワ節調がないのが、清少納言清少納言たるところなのだ。  彼女は、むしろ無邪気だ。その突き放した明るさが、たくまずして人生の真髄に迫るのだ。彼女はきっと、明るくて、多少おっちょこちょいな童女めいた女性だったのではないだろうか。が、童女の目が時としておとなより残酷に真実を見すえるように、鋭いきれあじで人生のベールをはぎとってみせてくれる。  私はむしろ、現代の女性の方々に「源氏物語」よりも「枕草子」をよむことをおすすめしたい。だいいち「源氏」よりずっと読みやすいし、現代に通じる警句があちこちに散らばっているからだ。 「めったにないもの、舅にほめられる婿、姑に思われるよめの君」  とか、 「憎いもの。急ぎの用の時長居する人」  などのケッサクがあるほか独特の恋愛美学もズバリと語られている。彼女には、美しいものとそうでないものを区別する、天才的な勘があったらしい。千年前に生きながら、彼女の感覚は今でもとびぬけて新鮮である。