* * * 宮城県石巻市。旧大川小の遺構を左手に、国道を上る。トンネルを抜けてしばらく下ると、「ここまで津波浸水域」と記された看板が現れた。まだ山道の途中で、海は見えない。ここ、同市雄勝(おがつ)町は2011年3月11日、高さ10メートルを超える津波に襲われた。最大遡上高は21メートル。場違いに見える看板がその威力を物語っている。 山を下りるとすぐに、灰色の巨大な壁が現れた。高さ9.7メートル、長さ3キロにおよぶ防潮堤だ。城壁のように延びる防潮堤のすぐ裏にある海は見えず、その気配すら感じない。 震災前、この海沿いには住宅や商店が立ち並び、350世帯が暮らす街があった。だがいま、地区に残るのはわずか30世帯ほど。海際の低地は災害危険区域に指定されて住むことはできず、高台の集団移転地に暮らしている。 「雄勝は、防潮堤に殺された」 高橋頼雄さん(53)は絞り出すように言う。雄勝の名産でもある硯(すずり)職人の3代目。震災後の地域復興を引っ張るリーダーだった。だが、高橋さんは19年春に雄勝を離れ、いまは福島県いわき市で暮らす。 ■海から見えた雄勝の街が高い「壁」で囲まれた 高橋さんら地元住民の多くは、巨大防潮堤の建設に反対してきた。市役所支所が事務局を担い、高橋さんが副会長に就いた雄勝地区震災復興まちづくり協議会では11年7月、石巻市長に11項目の要望書を提出した。要望の一つ目は住宅再建のための高台造成。二つ目に、高い堤防を築かないよう求めた。 住民と地元行政の思いは一致していた。だが11年秋、流れが変わる。9月、県から「雄勝湾奥部9.7メートル」という防潮堤の指針が示された。住宅は高台へ移すが、海沿いの県道を守るために防潮堤も築く。それが県の方針だった。当初反対した市役所支所も、やがて受け入れを決定。高橋さんは協議会をやめ、別の住民団体をつくって、震災前と同じ4.1メートルに留めるよう求め続けた。しかし計画は覆らず、16年、ついに工事が始まった。
「高い防潮堤をつくれば復興は遅れに遅れるばかりか、漁業も景観も深刻な打撃を受けます。道路を守るためだけにすべてを犠牲にして、町を壁で覆いつくすなんて馬鹿げている。住民無視の計画です」(高橋さん) 高さ9.7メートルもの防潮堤をつくっても、東日本大震災規模の津波が来ればたやすく越水する。それどころか防潮堤で海が見えず、避難が遅れるとの指摘も多い。防潮堤をつくらず、海際には大事なものを置かない。そして、あの日のことを語り継いでいくのが本当の防災ではないかと高橋さんは言う。 工事が進んだある日、高橋さんは趣味の釣りのために沖へ出て愕然とした。 「青い海の先に山が連なり、幾筋もの沢が輝く。そんな海から見た雄勝が私の原風景です。でもその日は、高い壁で囲まれたグロテスクな景色でした」 この日、雄勝に住み続けることを完全に諦めたという。 高橋さんは街を出たが、80歳になる母は今も雄勝に住む。高橋さんもときおり会いに行く。だが、そこは高橋さんが愛した「ふるさと」ではない。 「私にとって今の雄勝は、『母が住んでいるところ』でしかない。私のふるさとは『人災』でなくなりました」 東日本大震災で破壊された海岸堤防等の復旧・復興事業は被災6県(青森、茨城、千葉を含む)の621カ所(延長432キロ、原子力被災12市町村除く)で進められ、昨年9月末現在で75%が完成、今年度末を目途に工事終了を目指す。昨年度までに1.4兆円が投じられ、東北各地に10メートルを超える防潮堤が出現した。 政府の中央防災会議は、津波の規模として、数十年から百数十年に1度のレベル1(L1)と数百年に1度のレベル2(L2)の2種類を設定。L1は防潮堤などハード対策で背後地の生命財産を守り、L2では津波が堤防を越えることを想定しながらも、避難行動で減災を目指すことを基本とした。 この方針を受け、宮城県では「L1の最大値」を基本に防潮堤を計画。村井嘉浩知事は「やめたらもう先には、どんな理由があってもやれない」と号令をかけた。全額国費で賄える復興期間の5年間(のちに延長)での完成を目指したのだ。
岩手県では、「地域の思いを尊重する選択肢を残す」との姿勢で計画作りを進めた、と震災当時の県土整備部長、若林治男さん(66)は言う。ただ、「国の基準に合わないと国費が出ない」という事情も無視できなかった。 一方、環境や景観への配慮を求める声も住民の中に増え始めた。宮城県最大の海水浴場とされた気仙沼市の大谷海岸では高さ9.8メートルの防潮堤が計画され、砂浜消滅の危機にあったが、住民組織が「防潮堤をセットバック(後退)して国道と一体化する」構想を提案。5年がかりの交渉の末、砂浜を守った。 復興事業621カ所のうち、高さを下げたり、位置を変更したりするなどの見直しが行われたのは197カ所に上る。だが、雄勝では反対の声は届かなかった。宮城県でも大谷海岸のように住民合意などの条件を満たせば「特例」で計画変更を認めるケースがあったが、雄勝で問題となったような町の中心部では、特例は認められなかった。 ■住む場所をめぐる選択は 「誰と生きるか」の問い 震災後、被災者たちが直面したのは、どこに住むか、どう暮らすかという住まいをめぐる難問だ。 雄勝では、震災前約4300人いた人口が1100人に減った。町を離れたある被災者はこう吐露する。 「家があったから雄勝にいた。家がなくなった以上、戻る理由がない」 11年秋の調査で、地区内での再建を希望した被災世帯は約42%。そして、防潮堤建設による復興の遅れと景観破壊がさらなる再建断念や転出をもたらした。残った人口の57%は高齢者だ。 高橋さんのように変わりゆく街に翻弄され、決断を迫られた人がいる一方、住む場所をめぐる選択は「誰と生きるか」という問いでもあった。街を二分する巨大事業に直面しなかった地域でも、多くの人が難しい選択を迫られた。 宮城県の都市部に住む80代の女性に会いに行った。住宅街に立つ集合住宅型の災害公営住宅。入居者は様々な地区から集まり、旧知の人はいない。
女性が震災前に住んでいた地域は津波で浸水したものの、今も人が住めるエリアで、災害公営住宅も建てられた。入居者は以前から同地区に住んでいた人たちで知人も多い。友人も熱心に女性を誘った。だが、女性が終の棲家に選んだのは縁のない地域だった。以前の友人と会うことはもうほとんどない。 彼女が今の災害公営住宅を選んだ理由はたった一つ。震災で亡くなった一人娘の夫の職場に近いからだ。早くに夫と別れ、震災で娘と孫を亡くした女性にとって、娘婿はほぼ唯一の縁戚だ。 義理の息子は5年前に再婚し、再婚相手との間に子どももいる。それでも、今も週6回は女性の元に足を運ぶ。 「ごめんなぁ」 女性は、つい漏らしてしまう。そして、こうも言う。 「『大丈夫、長生きしてけらいん』と言ってくれる。ありがたいな。でも新しい家庭があるし、『いつまで生きてんだ』と思われないか不安になります」 (編集部・川口穣、ジャーナリスト・菅沼栄一郎) ※AERA 2021年2月15日号より抜粋