島津氏と関係ある虎居城跡(鹿児島県さつま町)で発掘調査が行われ、優雅な暮らしていたのではないかと指摘された。一方、島津氏の領内では人の生け捕りや連行も行われたので、その真相を取り上げることにしよう。

 

 日向都城(宮崎県都城市)の北郷忠相の日記『北郷忠相日記』の天文15年(1546)1月の記事によると、敵兵50余人を討ち、男女、牛馬を数知れず略奪したという。牛馬は農耕で用いたか、売買したのだろう。

 

 天文18年(1549)4月の記事には「生け捕り多し」とあるので、多くの男女を連れ去ったと考えられる。また、『蒲生山本氏日記』の弘治元~3年(1555~57)の記事によると、生け捕りした記録に加え、15~6歳の童子を1人生け捕ったと記す。

 

 北郷時久(忠相の孫)の日記『北郷時久日記』には、戦場における乱取りの状況を書き残している。永禄8年(1565)5月の記事によると、40人もの人を連れ去ったほか、7百もの具足(甲冑)を奪い去ったと記す。後者の戦利品は合戦で利用するほか、転売した可能性もあろう。

 

 注目されるのは、「人三人かどい候」という記事である。「かどわかす」には、「人を騙し、または力ずくで他へ連れ去ること」という意味がある。つまり、3人を強引もしくは騙して連れ去ったのである。

 

 島津氏の家臣で宮崎城(宮崎市)主の上井覚兼の日記『上井覚兼日記』はに、戦場での残酷な情景が記録されている。中でも注目すべきは、天正14年(1584)に島津氏が豊後大友氏と抗争を繰り広げたあとの話である。

 

 国へ帰る島津氏の軍勢は、怪我をした将兵のほか、濫妨人、女・子供など数十人が引き連れられていた。その路次は、そんな人々でごった返していたという。女・子供は、島津軍が豊後から連行したもので、あとで売買された可能性がある。

 

 フロイスが記した『日本史』には、戦争よりも戦利品を持ち帰ることを優先した、島津軍の将兵の姿を書き留めている。島津軍の将兵は多くの敵兵を殺し、さらに多くの捕虜や普通の人々を生け捕った。

 

 島津氏の将兵はそれら戦利品を一刻も早く国に持ち帰りたいと考え、敵への攻撃を途中で放棄し、引き揚げたというのである。戦争よりも略奪品が重要だったのだ。