戦争が膨大な人命を奪い去ることは、現在も続いているロシアのウクライナ侵攻を見ても分かるだろう。いまから77年前に終わった戦争でも数えきれないほどの命が失われた。 【画像】全滅後も各地で“目撃”された一木支隊の兵士たち その死全てが理不尽ともいえるから、当然のように戦争に絡む「怪談」や亡霊の話は数多く存在する。今回取り上げるのは、いまからちょうど80年前の1942年8月、南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島で戦死した兵隊たちにまつわる話。それも何人かが同時に多数を目撃したという稀有のケースだ。 そうした戦争の怪異譚が現代の私たちに伝えるのは、どこからどうみてもみじめで救いようのない死に追いやられた人たちの「死ぬに死にきれない」思い、そして、そうした悲惨な戦争は決してやってはいけないという無言の教えだろう。
「これが本当の陸軍の兵隊」と言われた部隊
1942年5月14日、1つの部隊が北海道旭川市を出発した。同市を本拠とする陸軍第七師団歩兵第二八連隊から抽出され、同連隊の連隊長・一木清直大佐が率いる一木支隊約2000人。示村貞夫「旭川第七師団」(1984年)は次のように書いている。 〈 5月13日、一木支隊は軍装検査を終了し、翌14日、歴戦の軍旗を先頭に、旭川北部第四部隊の営門を後に出発した。当時、一木支隊はもちろん、師団一般にこの部隊の編成及び出動を「ホ号演習」と称していたが、将兵は夏服支給などから南方作戦に参加することは予想していた。出発の日は寒い日で、雨が降り、桜が2、3輪ほころんでいたという。 支隊の将兵は、精強ともいわれるべきもので、主力は昭和16(1941)年入隊の現役兵。下士官と一部の召集兵は、ノモンハン事件に参加した予備役だった。〉 一木支隊の母体である第二八連隊は1900(明治33)年に旭川で正式に編成され、1905年、日露戦争での奉天会戦、1918年のシベリア出兵、1931年の「満州事変」、1939年のノモンハン事件などに出動。歴戦の精鋭部隊として知られていた。 連隊長の一木大佐は長野県出身で陸軍士官学校(陸軍幹部の養成機関)28期。1937年、日中全面戦争のきっかけとなった「盧溝橋事件」の際は現地部隊の大隊長で、事件拡大の口火を切った。陸軍歩兵学校の教官を務めるなど、実兵指揮に自信を持つ練達の将校。 「旭川第七師団」は、完全軍装で営門を出て行く一木支隊の姿を見送った初年兵が「ああ、これが本当の陸軍の兵隊だと思った」と回想したと書いている。
グアムから輸送船で日本に向けて出帆した一木支隊。ところが…
日本は太平洋戦争の幕開けとなった1941年12月8日のアメリカ・ハワイ真珠湾攻撃以降、東南アジア各地の戦闘で連戦連勝を続けていた。
真珠湾攻撃を主導した連合艦隊司令長官・山本五十六元帥は、短期決戦に勝利して講和に持ち込むことを主張していたが、1942年4月18日のドーリトル中佐らによる日本本土初空襲に衝撃を受け、アメリカ機動部隊の壊滅を期して、ハワイの北西約2000キロに位置する、アメリカ大陸とユーラシア大陸のほぼ中間にあるミッドウエー諸島(環礁)の奇襲攻略を企図した。一木支隊はそのために選抜された部隊だった。 旭川を出た後、広島県・宇品からサイパン島に渡り、作戦発動を待ったが、ミッドウエー海戦は、多くの手違いから主力空母4隻を失うなどの大損害となり、山本長官の企図は挫折した。一木支隊は6月13日、グアム島に上陸。2カ月近く南の島の駐屯生活を満喫し、8月6日、旭川への帰還命令を受けてグアムから輸送船で宇品に向けて出帆した。ところが――。 ここからの話は、菅原進「一木支隊全滅 ガダルカナル島作戦 第七師団歩兵第二十八聯隊」(1979年)と、読売新聞大阪社会部編「新聞記者が語りつぐ戦争14 ガダルカナル」(1982年)、その取材デスクだった田村洋三氏の「彷徨(さまよ)える英霊たち 戦争の怪異譚」(2015年)を基に記述する。実際に目撃した人はその後戦死しており、生前周囲に話した内容を記録している。
午前0時近く、軍靴で砂利道を踏みしめる部隊行進の音が…
1942年8月21日の旭川は、最高気温24.9度(旭川地方気象台ホームページ)というから、それほど暑くはなかったようだ。第七師団は旭川市の郊外にあり、師団司令部などのほか、同師団所属の歩兵二六、二七、二八連隊の兵舎が並んでいた。 そのうち、通称「北部第四部隊」と呼ばれる第二八連隊の兵舎は閑散としていた。一木支隊が出発したため、表門を入って手前の「第一線兵舎」「第二線兵舎」が空になり、一番奥の「第三線兵舎」に留守部隊がいるだけだったからだ。表門では、重機関銃中隊から衛兵勤務に出ていた兵長(上等兵の上、伍長の下の階級)が立哨していた。 終電車も終わって道を歩く人も絶え、もう交代時間の午前0時近くになったかと思うころ、兵長は編上靴(兵士の軍靴)で砂利道を踏みしめるザクザクというような部隊行進の音を聞いた。 編上靴の底に打ってある鉄の鋲(びょう)が、道路にまかれている砂利と触れ合う音。兵長には中隊(兵士約150人規模)以上の部隊のように感じられた。暗くて見えないが、ザクザクと均一にそろった軍靴の集団の歩調だけが聞こえてくる。 夜間演習に出た部隊があるとは聞いていなかったが、部隊が接近してくるのはどういうことだ。兵長はすぐ営門の内側の衛兵所に向かって「部隊接近! 衛兵整列!」と大声で怒鳴った。 旧日本軍は極めて規律に厳格で、将校以上が指揮する部隊が営門を通過する場合は、衛兵が整列して送迎しなければならないなど、細かい決まりがあった。敬礼などの態度や服装に乱れがあるとして上官らから叱られることもしばしばで、衛兵は緊張を強いられる勤務。
衛兵所には衛兵7人かいたとされるが、兵長の耳には、驚いたらしい彼らのガヤガヤという話し声とガチャガチャという帯剣が触れ合う音が聞こえた。兵長は両目をカッと見開いて軍靴の響く方向を見た。そしてパチパチとまばたきして自分の目を疑った。軍旗が見えたからだ。
汚れた野戦の服装、ずぶ濡れの下半身…戦地に行ったはずの部隊の姿
まさか! しかし、確かに軍旗だ。約3カ月前、一木大佐と支隊とともに戦地に行ったはず。国鉄(当時)旭川駅に向かっていくのを自分も見た。兵長の頭は混乱した。軍旗が帰ってくるなら出迎える決まりの当直司令将校は出てきていなかった。それでも兵長は「軍旗入門! 軍旗入門!」とまた怒鳴った。 歴戦を経てほとんど房だけになった軍旗が門柱の電灯の光に浮かび上がったとき、兵長は直感した。一木支隊が帰ってきたのだと。兵長は軍旗に「捧げ銃(つつ)」の敬礼をし、軍旗の前後にいるはずの一木大佐に「表門、立哨服務中異常なし」と大声で申告した。 しかし、通例なら「ご苦労」などと答えて挙手の答礼があるはずが何もなかった。 軍旗は正門から中に入り、続く部隊は四列縦隊で行進していた。兵長は捧げ銃の姿勢のまま、両目から火の出るような思いで眺めていた。 影絵を見ているような気がした。兵士は吐く息さえも殺したように一様に無言。驚いたことに、小銃の先に着剣している。しかも、戦場を駆け巡って帰ってきたと見える汚れた野戦の服装。腰から下は川を漕ぎ渡ってきたようにずぶぬれで、軍服の上衣と袴(こ=ズボン)の色がはっきり区別できるほどだった。 兵長は眺めながら放心していた。一方、衛兵所の衛兵司令軍曹は、一木支隊の突然の深夜帰隊に心臓の鼓動がなかなかおさまらなかった。何の前触れもなく部隊が軍旗とともに帰ってくるなど、彼の長い軍隊生活でもなかったことだった。
上等兵は「なにか変だ」と思った
なぜ将校が出迎えないのか。いくら突然にしても不思議でならない。軍曹の目にも帰還兵士の姿は影絵のように見えた。しかも、連隊本部の兵舎を通過した途端パッと消えたようだった。 整列したほかの衛兵たちもキョトンとして無言。その1人である上等兵が驚いたのは、通り過ぎる兵士のどの顔も能面ともいうべく無表情で、まるで生気がなく、どす黒いことだった。さらに、誰一人として見覚えのある顔がなかった。 上等兵は「なにか変だ」と思った。衛兵司令の軍曹は「よし! 俺は巡察してくる」と懐中電灯を取り上げ、帰還部隊の後をつけるように第二線兵舎に向かった。兵士たちが一斉に玄関から、われもわれもといった具合で入って行った。やはり、一木支隊が帰ってきたのだなあ。それなら「ご苦労さま」の一言ぐらいは言わねばなるまいと、懐中電灯を照らして兵舎の中に入った。 なんということだ。いま兵隊が先を争って入った兵舎なのに、話し声一つしない静けさ。兵士はどこにも一人もいなかった。闇の中の兵舎の長い廊下を冷たく黒い風が吹き、軍曹の首筋をなで、彼はゾッとした。
全滅していた部隊…しかし、事実は報じられなかった
「幽霊部隊かもしれない。彼(軍曹)は直感した」と「一木支隊全滅」は書いている。事実その通りだった。 一木大佐率いる支隊先遣隊はこの日、8月21日、全滅していた。上陸したガダルカナル島でアメリカ軍の猛烈な集中砲火と戦車に蹂躙され、916人中777人が戦死するという惨澹たる敗北だった。 しかし、そのことは留守部隊にもすぐには知らされなかったうえ、報道管制で秘匿され、旭川市民を含む国民が事実を正確に知らされるのは約1年後のことだ。 「彷徨える英霊たち」は衛兵司令軍曹について「氏名、年齢不詳」としているが、「一木支隊全滅」はその後、満州(現中国東北部)から沖縄に渡り、終戦時に戦死したと書いている。 さらに立哨していた兵長も、衛兵所にいた上等兵も同様に沖縄で戦死。「この亡霊部隊を迎え入れた歩哨たちも衛兵司令と同じコースを通り、沖縄で戦死したのである」(「一木支隊全滅」)。 同書によれば、著者は誰か生き証人がいないかと北海道新聞の伝言板で問い合わせたが、直接見たという人は現れなかった。第七師団の各部隊からはその後、満州の第二四師団に転属する兵が多く、同師団は沖縄に投入されたため、そうした結果になったようだ。
「当時は半信半疑でした。しかし…」
「一木支隊全滅」によれば、当時重機関銃中隊の所属で目撃者の兵長と上等兵から話を聞き、沖縄でも生き残った元一等兵から証言が得られた。次のように語ったという。 「当時は半信半疑でした。しかし、各中隊から亡霊部隊帰還については他言しないように。もちろん流言してはならぬとの注意があったが、翌22日には連隊中、誰一人知らぬ者はないというぐらいに広がってしまったようでした。私は兵長や上等兵が面白半分に作り話をしたとは思えないのです。もし特定の数人の兵隊の作り話でしたら、当時あんな広がり方はしなかったと思います。私はいまでも(事実だったとの)確信を持っています」 加えて、当時旧制旭川中学(現北海道旭川東高)の最高学年である5年生が卒業前の体験訓練で第二八連隊の兵舎に宿営していた。その中で不寝番に立っていた生徒が、亡霊部隊が空の兵舎に入って行くのを見たという。 生徒は夜間演習から帰隊したと考えていたらしいが、翌日になって兵隊から話を漏れ聞き、「さてはあの部隊は――」ということで、そこから生徒の間に広まったという。 憲兵隊から「亡霊部隊について一切流言してはならぬ」と厳しい通達があったが、家に帰った中学生から一気に市内に話が広まった。憲兵隊は通学の列車に乗り込むなどしたが、うわさが広がるのを抑え込むことはできなかった。
続々続く兵士たちの報告。そして、家族たちの間でも…
第七師団の兵士たちの間では「営庭の明かりの下を一木支隊の兵隊たちが列を作って通過するのを見た」「おまえも見たか、俺も見たよ」式にうわさがエスカレートした。 同じころ、第三線兵舎の外で立哨していた一等兵が、第二線兵舎の屋根に、暗い空から人魂のような青白い色をした長さ約2メートルの棒状の火箭(かせん=火の矢)が7~8本、突き刺さるように降ったのを目撃。週番下士官室に行くと、同様に見たという報告が次々届いたという。 さらに「二八連隊の兵舎の窓ガラスが真紅に染まり、西日が当たって、兵舎全体が血まみれのようになった」「夜になると、屋根瓦がカラカラと騒々しい音を立てて不寝番を驚かせた」といった話が乱れ飛んだ。 家族の間にも不思議な出来事が起きていた。戦死した一木支隊の軍医中尉について、札幌に住んでいた母は「8月21日夜、白衣姿で白い杖をついて家に帰ってきた」と語り、その1週間後には第七師団敷地内官舎の妻の夢枕に立った。同じころ、何人もの将校の妻が、血まみれの軍服姿で枕元に立つなどの夫の姿を見た。 そろって留守部隊の幹部将校に安否を問い合わせたが、分からないままだった。兵士の家族にも同様の異変が起きた。
「さすがに全滅とはせず『大きな被害を受けた』とぼかしてありましたが、ピーンときました」
「彷徨える英霊たち」には、当日夜の当直司令だった中尉の証言が載っている。 それによると、2人の不寝番の兵士が正体不明の兵士の群れを見た。 「誰もいないはずの空き兵舎の2階から兵隊がぞろぞろ降りてくる」 「鉄かぶとを横っちょにかぶったり、鉄砲を担いだり、手にぶら下げたり、いろんな格好で降りてくる。一目で負け戦と分かる乱れた服装、態度だったそうです。空き兵舎ですから明かりはありません。だから真っ暗なのに、階段の所だけがボーッと明るく、2人は薄気味悪くて声をかけることもできず、じいっと見ていた。兵隊たちは踊り場を次々回ると、姿が消えた。どこへ行ったか分からないということでした」 中尉は「そんなバカなことがあるか」と言ったが、2人とも見たというので放っておけず、連隊に報告した。 「その5日後、一木支隊の戦況に関する初めての公電が師団に入りました。さすがに全滅とはせず『大きな被害を受けた』とぼかしてありましたが、ピーンときました。そこで、あの時の話はやっぱり本当だったんだ、あれはきっと一木支隊の英霊が還ってきたのだ、それで乱れた服装だったのだ、という話がいよいよ広まったのです」 「日本人はね、1人も助からんよ。そういう戦いだもん」惨敗、マラリア、餓死…ガダルカナル島で散ったある精鋭部隊と“その後” へ続く