産業医・夏目誠の「ストレスとの付き合い方」
仕事をしていれば、ストレスはつきもの。精神科産業医として45年以上のキャリアを持つ夏目誠さんが、これまで経験してきたケースを基に、ストレスへの気づきとさまざまな対処法を紹介します。 【図解】男性の更年期障害チェック表
「朝起きて、行く場所がないのがつらいですね。今日もだらだら過ごすだけかと思うと」。退職して1年になる高橋太郎さん(仮名)は、力なくつぶやきました。定年後も社員に健康不調があれば、産業医や産業看護職に相談できる会社があります。高橋さんはメーカーを65歳で退職(最後は関連会社役員)し、このままではいけないと考え、退職した会社の健康支援室の保健師さんに勧められ、以前から面識のあった私のところに相談に訪れたのでした。
妻に誘われ高齢者大学に行ったものの
産業医 : 退職されて、どのくらいになりますか? 高橋さん: 1年になりますが、やることがなくて……。 産業医 : やらなければいけないことがないのでしょう。 高橋さん: 妻も心配して協力をしてくれましたが、どうもね。 高橋さんなりにいろいろ模索してきたようです。 3月末で退職したころは多くの送別会、退職のあいさつ状書きと多忙でした。しかし6月後半頃になると、それもひと段落。やるべきことがなくなったのです。家でゴロゴロして過ごしている高橋さんが、妻にはしょんぼりしているように見えたようです。見かねた妻の勧めで自治体が運営する生涯教育の高齢者大学に、一緒に行ってみました。夫婦連れの参加者も多く、全体に女性は熱心でしたが、男性は居心地が悪そうな人もかなりいるようでした。男性同士固まっている集団があり、昔の名刺交換や仕事の話をしているようです。
「ここは会社とは違うのよ」と妻に言われ
彼はなんとなく居心地の悪さを感じていました。妻からは「ここは会社と違います。上司も部下もないのよ。お仲間ができると良いのに」と言われました。彼はそんな妻に「今さら、何を学ぶんだ?」とぼやいて2か月でやめました。 次に妻に勧められた陶芸教室に行きました。初めてなのでどうしてもうまくいきません。周りと比べてみても出来が良くないのは自分でもわかるので、心は楽しみません。参加者が談笑しているのを見て、「俺は浮いているんだ。我慢してまですることではない」とやめてしまいました。 会社に電話をして、かつての部下に時間を取ってもらって喫茶店で話をしました。スマートフォンにひっきりなしにかかってくる電話に応対をする彼を見て、「君も頑張っているなぁ」と言って別れました。 その翌日からは外へ出る気力も薄れて、テレビをぼんやり見るだけの時間。夜は寝つきが悪く、眠りも浅いのです。「いままでの人生、役員にまでなった俺は、何なのか?」という思いがめぐります。
仕事だけの人生、趣味の世界もない
このような話や経緯を聞き、再度面談をしました。 産業医 : 会社でも役員まで務め、達成感があった生活との落差でしょうか? 高橋さん: 必要とされ、それに応えようとして働いてきました。それが、今は何もすることのない日々。これが定年だとわかっていても、どうしようもありません。 産業医 : わかってはいる。 高橋さん: 自分の居場所がないという感じですね。 産業医 : 仕事だけの人生だったんだね? 高橋さん: う~ん……そういうことになるんですね。 産業医 : 家族関係や友人、趣味の世界を育ててこなかったんだね。 高橋さん: 家庭はかなりスルーをしてきたかな。それでも妻は僕のことをよく気遣ってくれますよ。 産業医 : 高齢者大学や陶芸への誘いですね。 高橋さん: 感謝しています。 産業医 : 友人は?
相談する仲間もいない
高橋さん: 今回わかったんですけど、お恥ずかしい話ですが、相談する仲間がいないんですね。友人がいないんですよ。 産業医 : 学生時代の友人は? 高橋さん: 連絡を取り合っていないから。友ではないでしょう。 産業医 : 寂しいですね。 高橋さん: う~ん。 産業医 : これからどうしますか? 高橋さん: 答えがないんだ。わからないから相談に来たんですよ。 産業医 : 難しい問題。これは、あなただけでなく、多くの男性の悩みでもあると思っています。 高橋さん: 僕以外もそうなんだ。多少安心した。 産業医 : 趣味はすぐできるものではない。最初は誰でも初心者。少しずつ身につけ、ある一定レベルから楽しめるようになるものです。 高橋さん: 一定レベルにならないと……そうですね。ある程度できるようにならないと楽しくはない。陶芸をやってみてそう思いました。
会社の集まりではポストの高い人が大事にされる
産業医 : 社員同士でゴルフなども楽しんできたと思いますが、それを趣味と言えるかどうか。社員同士だと、ポストが高い人が大事にされますからね。 高橋さん: 耳が痛いね。社内コンペの居心地がよかったのは、私が本部長だったからなんですね。 産業医 : そう、そう。社内で友人はできませんよ。 高橋さん: そうですね。(うなずく) 産業医 : いままで何か楽しみごとはありませんでしたか? 高橋さん: 絵はうまかった。 産業医 : それでは、絵を始めてはいかがですか。何か始めましょう。 高橋さん: チャレンジしてみます。
得意だった絵画を通して友だちができた
産業医 : いかがですか? 高橋さん: カルチャーセンターの絵画教室に入りました。 産業医 : 初心に帰りましたか。 高橋さん: 反省して66からの手習いの気持ちです。 産業医 : そう、そう。 高橋さん: 2か月間は1人で描いていましたが、その後、退職した男性と話をするようになりました。 産業医 : 良かったね。 高橋さん: 彼がいるから通うのは楽しいです。3回に1回くらいは居酒屋で飲みます。高齢男の悲哀論で盛り上がります。 産業医 : もう、私の相談は卒業ですね。 「男女の危機」は時期が違います。女性は「更年期障害」や子どもが巣立った後の「空の巣症候群」が発生する50歳代、男性は定年後、仕事をやめた時に到来します。退職時のポストが高い人ほど、ギャップが大きくて悩みは深いと思います。やはり在職中から趣味や仲間作りが大切ですよ。