貧しい身分から出世し天下統一を果たした豊臣秀吉とはどんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「目的のためなら人の命を何とも思わない武将だった。それは、彼が行った城攻めに見ることができる」という――。 【写真】鳥取城 全景 ■「どうする家康」の秀吉はなんだか不気味 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優のムロツヨシさんが豊臣秀吉を演じている。織田信長の家臣として登場した秀吉であるが、ムロさんの「怪演」もあり、話題となっている。 秀吉の初登場は第4回「清須でどうする!」(1月29日放送)だった。織田家重臣の柴田勝家に「猿!」と呼ばれて、「へいへい、へーい!」と登場した秀吉に対し、勝家は背後から急に蹴りをくらわす。 秀吉は怒りに震えるのかと思いきや、それを気にもとめていない様子。そればかりか、信長と会見するため清須に来ていた松平元康(徳川家康)一行にも、なぜか、尻を向けて、蹴りを要求するのであった。 家康に対し、秀吉が信長の戦のやり方について解説するシーンでは、嬉しそうに話をしているようでいて、秀吉の目の奥は醒めたままだった。その様子にSNSでは「狂気が感じられる」「闇深い」「不気味」などの感想が相次いでいた。 貧しい境遇から、信長に仕えて立身出世し、ついには天下統一を成し遂げた。 そんな秀吉は、これまで何度も時代劇や大河ドラマ、歴史小説などに取り上げられてきた。フィクションに描かれてきた秀吉の性質にはいくつかのパターンがある。 ■決して天下を獲ったから傲慢になったのではない 例えば、1996年に放送された大河ドラマ「秀吉」は、秀吉役を竹中直人さんが演じ、その明るくパワフルな演技が話題となった作品だ。そこでの秀吉は、織田家臣時代では庶民的で命を重んじていたが、出世とともに、傲慢になっていく姿が描かれていた。 同じく大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014年)では、2度目の秀吉を演じた竹中直人さんが、甥の豊臣秀次一族の惨殺や、朝鮮出身など、天下を取った後の堕ちてゆく太閤を演じた。 剽軽、明るい、人たらし。しかし、時を経て権力を得るに従ってその性格は変質し、残忍で傲慢な「専制君主」となっていく……。多くの方が想像する秀吉像は、ざっとこのようなものではないか。 しかし、史実はそうではなかったのである。彼による「悪行」は、年齢を問わず行われており、またとてもドラマでは放送できないようなものなのだ。
■女・子供200人を串刺しに まず挙げられるのは、上月城落城後の行動である。 天正5年(1577)、秀吉は、信長から毛利家の支配する中国地方の攻略を託され、播磨国・上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻めた。 上月城に籠るのは、毛利方の武将・赤松政範。上月は、播磨・備前・美作3国の境界に位置し、交通の要所だったため、秀吉はここを抑えて、西国の大大名・毛利氏を攻めようとしたのだ。 では、秀吉はこの城をどのように攻めたのか? それは、秀吉が国元(近江国)にいる家来の下村氏に宛てた書状(下村文書)に記されている。 同年11月28日、城を包囲した秀吉軍。彼らが最初にやったことは、籠城側の水の手を断つことだった。そうしたこともあり、籠城側は忽ちのうちに困窮。秀吉方に色々と詫び言(降伏するとも伝えたのだろう)を言ってきたが、秀吉はそれを跳ねつけた。 そればかりか、垣を3重にして、籠城する兵士らが逃亡するのを許さなかった。その上で、あらゆる場所から、秀吉軍は攻撃を仕掛ける。12月3日、城に攻め込んだ秀吉軍は、敵兵の首をことごとく刎ねたのである。 これで終わりではない。むしろ秀吉の残虐性はその後に露わとなる。 城内にでもいたのであろう女・子供200人ばかりを備前・美作・播磨の国境に連行。子供は串刺しに、女性は磔にして虐殺したのである。 ■エグすぎる「三木の干殺し」 秀吉は、なぜそのような残虐行為を命じたのか。秀吉自身の言葉によると「敵(毛利)方への見せしめ」のためであった。 しかし、いくら敵への見せしめのためとは言え、非戦闘員である女性や子供を残忍な方法で大量に処刑するということは、戦国時代とはいえ、そう多いものではない。 秀吉の城攻めにおける苛烈さはこれだけではない。翌年の天正6年(1578)から始まる播磨の三木城(城主・別所長治)攻めの際も、秀吉は「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを展開している。 毛利方の援軍を待つ、別所は兵士だけではなく、家族や浄土真宗の門徒も含まれる「諸籠(もろごも)り」を決行した。その数およそ7500人。 秀吉は補給路を断つため、周辺の支城を次々に撃破。城内の食糧は次第に尽きていき、籠城する兵士たちは、鶏・牛・馬・犬などの動物を喰らい、それも尽きると、人肉を食するという「異常事態」となるのである。 1年10カ月後、追い詰められた城主・別所長治は、城兵の命と引き換えに自ら命を絶ったという。しかし、秀吉はその約束を守らなかったとされる。残った城兵は秀吉により、ことごとく殺害されたのであった。こうしたところも、秀吉の性格の低劣さを示しているだろう。
■大阪城内に300人以上の娘を囲う 女性と言えば秀吉はたいへんな女好きであった。しかもその性欲は老人となってからも、衰えを見せなかったようだ。ルイス・フロイスは次のように記している。 「齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた」(『日本史』) また同書には、秀吉が諸国を訪問する目的の1つは、美しい「乙女」を探すことだったと書いてある。 秀吉は天下人であり、その権力は絶対であったので、その意向に背く者などおらず「国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で(娘たちを)収奪した」という。 この話がどこまでが本当か分からない面もあるが、人間を軽く見ていたのは確かだろう。 秀吉は、天下を獲る前も、獲ってからも、残忍で陰険な手段により、人々を殺してきた。目的のためには人の命を何とも思わないその所業は、とてもドラマで描けるものではないであろう。 ---------- 濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう) 作家 1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。 ----------